ジブリ ジブリ っていうけれど、まずスタジオジブリってなんぞや??って話ですよ。
老若男女、誰でも一度や二度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?
中には金曜ロードショーでジブリをやれば必ず見る!って猛者もいるのではないでしょうか??
僕もその一人で、いつかはジブリのDVDを全巻揃えたい!
そんな夢も持っているほど、ジブリにはどっぷりハマっております。
数年前に兵庫県のほうでジブリ大博覧会をやっており、時間が経つのも忘れて友人と語り明かしたほどです。
でも、作品についてはスラスラ出てくるけど、どうやって作られたの?と聞かれると、ジブリって宮崎駿さんと高畑勲さんが立ち上げたアニメーションを作っている会社?としか言えない自分がいました。
それではジブリの一ファンとして示しが付かない!!
なので、僕なりにジブリの歴史から現在までを分かりやすくまとめてみたいと思います!
スタジオジブリの前身
まずは、スタジオジブリを語るにあたって重要な人物である、宮崎駿さん、高畑勲さん、鈴木敏夫さんについて説明したいと思います。
宮崎駿さんと高畑勲さんの出会い
スタジオジブリは、宮崎駿さん、高畑勲さんが中心となって設立されました。
後に盟友と呼ばれるようになるお二人の出会いは、東映動画(現 東映アニメーション)でした。
高畑勲さんが勤務している東映動画に、宮崎駿さんが新入社員として入社したことで、今後のスタジオジブリを担うお二人が運命的な出会いをしました。
お二人は出会って直ぐに才能を認め合い、東映動画で沢山の作品を制作しました。
中でも「太陽の王子 ホルスの大冒険」(1968年)は、高畑勲の初演出作品、宮崎駿が原画場面設定をした、東映動画の中で、最も輝く作品となったのです。
しかし、TVアニメが普及し始めたことで暗雲が立ち込めます。
アニメの需要が高まるが、当時の東映動画は劇場用長編アニメーションだけを制作していたのです!
やりたい企画のTVアニメを任される可能性はほぼない
引用: 高畑勲 ウィキペディア(Wikipedia)
ことを察した高畑勲さんは、宮崎駿さんを説得してAプロダクション(現 シンエイ動画) に移籍します。
Aプロダクションでは、劇場用の長編アニメだけでなく、TVアニメの制作もするようになります。
主な作品として、「ルパン三世の第1シリーズ」や「パンダコパンダ」があり、ルパン三世で宮崎駿さんは初めての監督を経験しました。
その後、 お二人はズイヨー映像(日本アニメーション)へと移籍し、「未来少年コナン」や「アルプスの少女ハイジ」を制作しました。
アルプスの少女ハイジでは、最高平均視聴率が26.9%と大ヒット!
宮崎駿さんはTVアニメで初めて大きな成功を収めました。
アニメーターとして順調なある時、宮崎駿さんにとって大きなチャンスが舞い込んできます!
リニューアルされ人気を絶頂の「ルパン三世」の映画化の誘いを受け、宮崎駿さんはテレコム・アニメーションフィルムへと移籍しました。この時に制作したのが「ルパン三世 カリオストロの城」で初の映画監督デビューを果たしました。
同時期に高畑勲さんも移籍し、「じゃりン子チエ」などの長編作品を制作しました。
様々な作品を産み出し成功を収めたお二人ですが、いつしかある答えにたどり着きます。
自分達が目指しているのはリアルでハイクオリティなアニメーション作り
人間の心理描写に深く入り込み、豊かな表現力で人生の喜びや悲しみをありのままに描き出す
これらを実現していくのには、やはりテレビという、予算的にもスケジュール的にも制約の大きい媒体では不可能である
引用: スタジオジブリの歴史
という結論に至ります。
鈴木敏夫さんとの出会い
彼らがこの結論にたどり着く一方で、ジブリを語るには外せない人物をご紹介します。
鈴木敏夫さんは、徳間書店という出版社で勤務していました。
そんな鈴木敏夫さんが宮崎駿さんと高畑勲さんと出会ったのは、児童少年編集部という部署に異動し、新たに創刊されたアニメ雑誌「アニメージュ」(1978年)の中心となって活躍されていた時でした。
アニメージュとは、「宇宙戦艦ヤマト」 や「機動戦士ガンダム」といった、日本を代表するアニメが広く知られるようになった雑誌で、鈴木敏夫さんはその火付け役の一人でした。
そんな、アニメージュの実験的な試みを行う中で、宮崎駿さんと高畑勲さんと出会い、その才能に鈴木敏夫さんが惚れ込んだことで、「風の谷のナウシカ」を世に送り出すことが出来ました。
鈴木敏夫さんは、風の谷のナウシカの構想を聞いた時から映画化を目指しており、徳間書店の企画会議に持ち込んたものの
「原作のないものは無理」
引用: 宮崎駿 ウィキペディア(Wikipedia)
と一蹴されます。
そこで、アニメージュで原作の連載を開始し「風の谷のナウシカ」に重みをもたせようとすると、多くの支持を集めることに成功し、当時映画事業に意欲的だった徳間書店の社長の鶴の一声により共同出資という形で映画化に至りました。
その時の制作会社がスタジオジブリの前身の トップクラフト です。
そしてスタジオジブリへ
公開された「風の谷のナウシカ」は当時(1984年)のアニメ映画として、 観客動員数は約91万人、興行収入は14.8億円と、大ヒットではありませんが、宮崎駿さんの知名度を高めるには十分でした。
この結果を受けた共同出資者の徳間書店は、アニメ業界への進出を決意します。
この1年後(1985年)、次回作の「天空の城ラピュタ」の制作を始めるにあたり、「風の谷のナウシカ」を制作したトップクラフトはこの時には解散していたため、制作会社を探すところからのスタートでした。
しかし、
なら、いっその事、スタジオを作ってしまいませんか?
引用: 高畑勲 ウィキペディア(Wikipedia)
と高畑勲さんが提案したことと、徳間書店がそれならばと出資したことによって、スタジオジブリが設立されました。
こう見ると、才能だけではなく、人の縁や偶然が重なりあい奇跡とも呼べるような出来事の連続で、一朝一夕では成しえないことだったんだなと感じますね。
スタジオジブリの由来
スタジオジブリってとてもいい響きですよね!
映像も個性があり、少し見ただけでも、ジブリっぽい!、と感じるのではないでしょうか?
しかし、ジブリの「ジブリ」とはなんぞや?
これに触れて生きたいと思います。
単刀直入にいいますと、ジブリとはイタリア語なんです。
意味は「サハラ砂漠に吹く乾いた熱風」のことで、宮崎駿さんの熱い思いが込められています。
宮崎駿さんは、叔父さんが経営する「宮崎航空興学」で工場長をしているお父さんのもとで、4人兄弟の次男として誕生しました。
お父さんの会社は、太平洋戦争中、ゼロ戦を製造している三菱重工の下請けとして、軍用機の部品を組み立てていた事から、宮崎駿さんは飛行機に関心を抱きます。
第二次世界大戦でのイタリア軍の軍用偵察機の名前がギブリであると飛行機マニアとなった宮崎駿さんは知っており、 イタリア軍の軍用偵察機 の名前をスタジオ名としました。
あれ?
ジブリじゃなくてギブリだよ?と気付いた方もいらっしゃると思いますが、スペルの表記に注目です!
「Ghibli」
そうです、実際のスタジオジブリの英語名も「STUDIO GHIBLI」となっており、宮崎駿さんの勘違いでジブリと読ませているのか、和製英語として日本人の馴染みやすいように変更したのかは定かではありません。
多分、後者です(笑)
ですので、本当の読みは「ジブリ」ではなく「ギブリ」なんだよ!と知っていれば、少し優越感に浸れるのではないでしょうか?(笑)
では、宮崎駿さんの熱い思いとは何なのかですが、前述したとおり、サハラ砂漠に吹く乾いた熱風の事で、
日本のアニメーション界に旋風を巻き起こそう
引用:スタジオジブリの歴史
という思いを込めた名前だそうです。
サハラ砂漠とは、氷雪気候の南極を除くと世界最大の砂漠で、平均気温は30度以上、最高気温は58度と高温です。そんなところからヨーロッパに向かって流れていく乾いた熱風は、地中海を通ることで湿気を含み、時には砂嵐となって吹き荒れるそうです。
日本から世界へとその名を轟かせたスタジオジブリは、まさに日本のギブリと言えるのではないでしょうか?!
スタジオジブリの偉業
僕が生まれた時からスタジオジブリと言えば、映画を出せばヒットは当たり前、グッズの種類も豊富でどれも魅力的、金曜ロードショーでジブリをやらない年は無いなど、凄く身近にジブリは存在していました。
また、子どもには安心して見せられる、というのもジブリの特徴でした。
そんなスタジオジブリですが、好調な出だしと言えなかったようです。
ジブリブランドはまだまだ先
「風の谷のナウシカ」を公開してから、ジブリとしての活動を開始します。
その初めての作品が「天空の城ラピュタ」(1986年)です。
今では金曜ロードショーの常連と言っても過言ではないラピュタですが、公開当時の興行収入は11.6億円と現在のジブリ作品の興行収入ランキングの中で、ワースト2位となっています。
「風の谷のナウシカ」でヒットはしたものの、駆け出しのスタジオジブリの知名度はまだまだ低かったのです。
次に公開されたのが「となりのトトロ」と「火垂るの墓」(1988年)です。
なんと2本同時上映だったのです!
僕の記憶では、ポケモンが一時やっていた短編と長編映画の同時公開が思い出されますが、昔はこれが普通だったんですね!(レコードのA面B面みたいな)
宮崎駿さんは1本の映画としてとなりのトトロを公開したかったのですが、60分程度の中編映画として企画されており、それでは単独の公演は難しいと渋られました。
そこで、高畑勲さんが温めていた、こちらも60分程度の中編映画の火垂るの墓を同時上映するということで落ち着きました。
制作していく中で、両作ともに60分だった上映時間は80分を超え、中編ではなく長編の2本同時上映となるが、この2本同時上映はジブリにとってマイナスでした。
となりのトトロと火垂るの墓…、ジャンルがあまりにも違いすぎる問題です!
トトロのほのぼのとした作品の後に、戦争を舞台にした映画…、当時の子ども達の中にはトラウマになってしまった子もいたとかで。
それに、当時はアニメは子どもの見るものという風潮が根強いため、大人の足もあまり出ず、4月公開という時期の悪さも後押ししました。
その結果、2作品合わせて興行収入が11.7億円と、渋すぎる結果となってしまいました。
これぞジブリ!
前作では2作品で11億円と、少々渋い結果となったジブリでしたが、次の作品が凄かった!
それは、通称、魔女宅とも言われるジブリを代表する名作「魔女の宅急便」(1989年)です。
荒井由実(松任谷由実)さんの歌う「ルージュの伝言」や「やさしさに包まれたなら」がすぐに思いだされるのではないでしょうか?
どれだけ凄かったかというと、観客動員数は264万人で興行収入は36.5億円、前作の3倍以上の大ヒットを収めます。
この結果は、1978年に公開された「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」の興行収入は43億円を抜き、日本アニメーション映画の興行記録を塗り替えトップとなりました。
それからも着実にヒット作を作り上げていき、今の私たちが知るスタジオジブリへと成長しました。
まとめ
振り返ってみていかがでしたでしょうか?
人それぞれ思い出の作品はあるかと思いまが、僕の場合はサンタさんに貰ったVHSの「もののけ姫」ですね。
そんな思い出も、宮崎駿さんや高畑勲さん、鈴木敏夫さん、その他にも紹介出来ていない人たちのおかげで、ジブリが作られていったのだと思うと、感謝してもしきれないですね。
今、宮崎駿さんの息子さん、宮崎五郎さんの作品、「アーヤと魔女」が公開されています。
親子で色々と比べられることは多いでしょうが、ローマは1日にしてならず、ジブリも一回で成功しているわけではないので、これからどんどん進化していくジブリを応援していきたいです。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。
また次の記事でお会いしましょう!
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